「答辞に代へて 奴隷根性の唄」   
                        金子光晴

 奴隷というものには、ちょいと気のしれない心理がある。
 じぶんはたえず空腹でいて、主人の豪華な献立のじまんをする。

 奴隷たちの子孫は代々、背骨がまがってうまれてくる。
 やつらはいう、
 「四つ足で生まれてもしかたがなかった」と。

 というのも、やつらの祖先と神さまの約束ごとを信じこんでいるからだ。
 主人は、神さまの後裔で、
 奴隷は、狩犬の子や孫なのだ。

 だから鎖につながれていても、靴で蹴られても当然なのだ。
 口笛をきけば、ころころし、鞭の風には、目をつむって待つ。

 どんな性悪でも、飲んべえでも
 陰口たたくわるものでも
 はらの底では、主人がこはい。
 土下座した根性は立ちあがれぬ。

 くさった根につく
 白い蛆。
 倒れるばかりの
 大木のしたで。

 いまや森のなかを雷鳴が走り、いなずまが沼地をあかるくするとき、
 「鎖を切るんだ。自由になるんだ」と叫んでも、
 やつらは、浮かない顔でためらって
 「御主人様のそばをはなれてあすからどうして生きてゆくべ。
  第一、申訳のねえこんだ」という。




◇表題の「答辞に代えて」というのは、戦後、自らの評価がガラリと変わり「反戦詩人」と褒めそやされるようになった状況に応えてか、と言われる。
 「権威」というもの。それに対する自分の在り方、距離のとり方。 
 「奴隷」にとっての自由の範囲は、枷の重さか、鎖の長さか。
 
 ままならない状況に追い込まれ、囲い込まれ、「奴隷」となったとき。
 それでも決して「土下座しない根性」が、状況を変える。いつか、必ず。



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