最近、社会の個人化という問題に関心をもっていて、リチャード・セネット『不安な経済/漂流する個人』(大月書店、2008年)を読んでみました。

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 セネットは、ウェーバーが想定した、近代の官僚的な「鉄の檻」から解放されることによって、帰属心、インフォーマルな相互信頼、組織に関する蓄積された知識という、3つの社会的損失があったと述べています。

 セネットは、直接的には職場の変容を問題としていますが、対抗運動の側においても同様のことがいえるでしょう。ネグリやドゥルーズは、その変化を承認して、マルチチュードやノマドといった、流動的なネットワークの重要性を説いており、私も基本的にはそれに似た現実感覚を共有しています。しかしながら「鉄の檻」のような堅固な集団を、ある程度は受容してきた自身の経験からいえば、セネットと同様、どうしてもそこで措定される人間像に違和感を持ってしまうのです。

 流動性の激しい今日の社会に、必要とされる人間像とは、他人に依存せずかつ社交的な人間です。そしてやはり今日の私たちの常識からしても、そのような人間は評価されています。しかしよく考えて見ると、他人に依存しないというのは、他人に関心をもたず執着しないということであり、他人は自己の目的を達成するためにのみ存在する代替可能な存在にすぎません。

 他人に関心がないのに社交的だというのは、いくら流動性の激しい社会であっても、社会は人間の集合体である事実には変わりないからで、社会的地位を向上させるには、独力で社会的ネットワークを構築していかなければならないからです。信頼に足る堅固な集団を失った私たちは、他人に依存せずに柔軟な集団を生きざるをえず、そこでは「人間関係の技術」が求められ、「協調性」が育成されることになるのです。

 しかしここで求められる「協調性」とは、あくまで柔軟な集団を生きるための自己本位のスキルなのであって、真の意味で人間の共同的社会性を育む力ではないと思います。セネットが「あらゆる社会関係は発達に時間を要する。個人と他者の相互関連からなる人生という物語を語るには、少なくとも人の一生の長さはつづく組織が不可欠となる」(p.40)と述べるように、人間同士の信頼や連帯は「協調性」が問われないような集団で育まれます。さらに、圧倒的多数の人々は、他人に依存せずには生きられない「弱い人間」なのであり、むしろ問題は、依存するに足る堅固な集団を、失ってしまったことにあるのではないかと思います。

 また構成員の入れ替えが激しい柔軟な集団では、「協調性」とともに、自身を差異化するための「能力」が日常的に問われることとなります。湯浅誠氏や河添誠氏が、「能力」という言葉に大きな抵抗を感じられたように(『「生きづらさ」の臨界』)、この能力主義は、新自由主義を支える自己責任論と親和的でもあるのです。

 現実に現代社会を生きざるをえない私たちからすれば、そうはいっても「協調性」や「能力」をつけていかざるをえません。そして失われつつある「鉄の檻」を復興させることは、容易ではないし、もしかしたら不可能な試みかもしれません。しかし少なくとも、「鉄の檻」からの解放を、単純な「進歩」ととらえるだけでは不十分であることは間違いなく、克服すべき新たな課題を見逃さないためにも、その歴史的位相を問うことはいま必要な作業だと思うのです。(ryoga)


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