発売当初から割と気になっていた、市野川容孝『社会』(岩波書店、2006年)を読みました。政治的な言葉としての「社会」が、なぜ1990年代以降、急速に衰滅しつつあるのか、という課題意識は、とても興味深く感じました。

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 「社会的」という言葉は、常に二重の意味をもっており、それは平等へと向かう実践であるとと同時に、その出発点ともなる不平等、しかも自然がではなく、人間自身が生み出す不平等の確認を私たちに迫るものだと、著者は述べます。1910年代に「社会」という言葉は、公的に承認され制度化されていくのですが、1940年にそれは一度、消滅しています。「社会政策」というのは「階級間の対立、抗争」を緩和するものだが、今や「階級対立の歴史観などは最も非国民的なもの」とされつつあり、「今必要なものは、民族的結束であり、階級の調和は、既に前提として全体社会と対立する階級集団に分割する論理を基礎としてゐるものであるから、現時の時局にふさはしいものではない」という理由からです。当時、当然「社会省」となるはずであった新省が、「厚生省」と命名されたのは、そういう背景があったのです。

 「社会の喪失」が指摘され、「強い市民社会」の構築が切実な課題として、急速に浮上しつつある現在、「社会」とか何かという問いに、正面から向き合ってみる必要を改めて感じました。(ryoga)

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