今日の夕刊を眺めていたら、著作権譲渡をめぐる5億円の詐欺罪に問われていた、小室哲哉氏に関する記事が載っていた。この事件は、90年代文化の末路を象徴しているようで、発覚当初から割と注目していたのであるが、どうやらエイベックスの社長が、6億円を被害者に振り込んだことで、執行猶予付きの判決に落ち着きそうなようである。
私的活動を通じて、自身の社会的価値を実現するというのは、近代社会一般の特徴であるが、そうはいっても80年代までは、日本社会のなかにも多様な中間団体が存在しており、私的活動とは異なる回路で社会と繋がることが可能であったのだと思う。学生文化に即していえば、学生自治会やサークルなどがその主要な要素であったはずだが、現在においては、そのほとんどは形骸化しているようだ。その代わりに、多くの学生を集めているのは、正課の授業や資格講座、インターンシップ、アルバイトなどの、自分にとって役に立つ私的活動である。その背景には、自身の能力や差異によってしか、自身の存在を根拠づけることができない、現代社会の存在論的不安があると思う。ここでは自分のために生きるということと、社会のために生きるということが、即自的に結びつけられている。そして少なくとも主観的レベルでは、単純なエゴイズムとは異なる考えをもつ人も多いのだろう。
しかしその一方で、自分のために生きるということに、空虚さを感じている人も決して少なくない。私的活動が社会的に認められるには、「命がけの飛躍」(マルクス)が必要なのであり、偶然性に大きく左右されるからである。自分の努力が報われるとは、決して限らないのだ。そしてやはり究極的には、自分の存在を自分で根拠づけるという、同義反復的思考に陥らざるを得ず、富や名声という際限のない目的に身を費やすだけなのである。
00年代の半ばになってようやく、中間団体の喪失がもたらす問題性が、社会的に認知されるようになってきた。認識が進んだからといって、直ちに事態が良い方向に向かうわけではないのは確かである。しかし派遣切りが取り沙汰される現代社会においては、若者文化の代弁者は、もはや小室氏ではいられない深刻さがあるのではないか。具体的な他人のために生きることと、社会のために生きることを結びつけた、新しい文化の創出が求められているように感じられるのである。(ryoga)
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私的活動を通じて、自身の社会的価値を実現するというのは、近代社会一般の特徴であるが、そうはいっても80年代までは、日本社会のなかにも多様な中間団体が存在しており、私的活動とは異なる回路で社会と繋がることが可能であったのだと思う。学生文化に即していえば、学生自治会やサークルなどがその主要な要素であったはずだが、現在においては、そのほとんどは形骸化しているようだ。その代わりに、多くの学生を集めているのは、正課の授業や資格講座、インターンシップ、アルバイトなどの、自分にとって役に立つ私的活動である。その背景には、自身の能力や差異によってしか、自身の存在を根拠づけることができない、現代社会の存在論的不安があると思う。ここでは自分のために生きるということと、社会のために生きるということが、即自的に結びつけられている。そして少なくとも主観的レベルでは、単純なエゴイズムとは異なる考えをもつ人も多いのだろう。
しかしその一方で、自分のために生きるということに、空虚さを感じている人も決して少なくない。私的活動が社会的に認められるには、「命がけの飛躍」(マルクス)が必要なのであり、偶然性に大きく左右されるからである。自分の努力が報われるとは、決して限らないのだ。そしてやはり究極的には、自分の存在を自分で根拠づけるという、同義反復的思考に陥らざるを得ず、富や名声という際限のない目的に身を費やすだけなのである。
00年代の半ばになってようやく、中間団体の喪失がもたらす問題性が、社会的に認知されるようになってきた。認識が進んだからといって、直ちに事態が良い方向に向かうわけではないのは確かである。しかし派遣切りが取り沙汰される現代社会においては、若者文化の代弁者は、もはや小室氏ではいられない深刻さがあるのではないか。具体的な他人のために生きることと、社会のために生きることを結びつけた、新しい文化の創出が求められているように感じられるのである。(ryoga)
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